この小論文は、1987年 4月に執筆し、「オルガン研究」 XIII号 に発表したものである。 すでに10年を経過し、この間のわが国におけるオルガンの普及や筆者の研究の進展により、訂正・加筆したい箇所も多々ある。 この点を理解された上でご一読いただければ幸いである。 専門用語の解説を省いたため 理解しにくい部分があることと思うが、不明の点については 筆者( t@orgel.com )までメールをいただければ回答する所存である。 いずれは、現状に即して全文を書き改めたいと思っている。


『コンサートオルガン』 に期待されるもの

大 林 徳吾郎


  は じ め に

 最近わが国でも,クラシック音楽の著しい普及と共に,『コンサートホール』に対する認識が深まり,アクースティック音楽のためのホールが,幾つか現実のものとなりつつある。また,これらを中心にホールへのオルガン設置が普及してきた。これらのコンサートホールは計画の段階でその音楽的な性格もより明確に打ち出され,今日の音楽の要求に応える響きを持ったものになりつつあると言えよう。そこで,現在ホール等に設置されるべきオルガンとその周辺の問題について,ここでは様々な角度から検討してみることにしたい。

 オルガン音楽は西欧の音楽史に於いて重要な位置を占めながら,キリスト教会内で育まれてきたため,わが国では一般の音楽家や音楽愛好家にとって馴染み難いものであった。だがオルガンは他の楽器とは比較にならぬ程多様な発達を過去に遂げ,そのために書かれた音楽も実に変化に富んでいる。欧米では,教会に行けばオルガン音楽は容易に聞けるので,コンサートホールの中にこれを求める必然性は殆どない。ところが日本ではオルガンを備えた教会堂が少く,オルガン音楽を十分に鑑賞できる場をホール等にも求めるのは自然なことと言えよう。ホールへのオルガン設置は,オルガン音楽に関心を持つ日本人にとって極めて重要な意味を持っている。

 我々がホール等で聞くことのできるオルガンの音は,歴史的に見てどのように位置付けできるのだろうか。私たちは本当に素晴らしいオルガンの響きを聞いたことがあるだろうか。またヨーロッパの大聖堂の中でなければ,オルガンに適した音響空間を求めることができないのだろうか。以下,教会を中心として専ら典礼のために使用される楽器に対し,オルガンの演奏を聞かせることを主目的としてコンサートホール等のために造られるオルガンを『コンサートオルガン』と呼ぶことにして話を進めよう。


  1. オルガンの歴史とコンサートオルガン

 今から2250年程前,ヘレニズム時代のギリシャでクテシビウスが造った "hydraulis" が,発音パイプ群・鍵盤・風箱・送風装置を備えた楽器としてのオルガンの,記録に残る最古のものである。この種の楽器は ローマ,ビザンチン両帝国の都市で儀式や遊戯・競技の大会に広く使用された。『演奏』の技を競うコンクールも催されたという(1)(2)。8世紀以降にオルガンは西欧諸国に伝えられ,幾つかのキリスト教会内に設置されたが,典礼に必要な楽器として認められるようになったのは 早くても11世紀からであった。14世紀には未だ Blockwerkの楽器だったが,1500年前後の 100年間,近代の夜明けと共に急速な発達を遂げた。 分化した笛を操るストップ装置が普及し,複数の手鍵盤を持つものも現れ,もはや今日我々が知るオルガンと機能的に殆ど変わらぬものとなった。 この時代の発達は必然的に『仕様』面での地理的な分化をも促し,ルネサンス期にはすでに,ネーデルランド,ドイツ,イタリア,フランス,イベリア半島等 ヨーロッパ各国で,また各地方ごとにそれぞれ特色のある楽器が製作された。ルネサンスからバロック前期にかけては,オルガン音楽も極めて充実したものを持つに至った。

 こうして教会内で発達したオルガンが再びそれ以外の場所でも活躍するようになったのは,主として時代が下った19世紀後半の英国に於いてである。 ヴィクトリア女王統治下の繁栄を背景に,各地の都市に新しいタウンホールが建設され,ここへ競ってオルガンを設置することが市民の誇りであった(2:228)。 教会と併行してホールのための楽器が普及したのは,オルガン史上この頃の英国のみだっただろう。 この時中心的な役割を果たしたのが,バロック以後の製作者としてはフランスのカヴァイエ=コルと並んで最も優れた作品を残した(3) ヘンリ・ウィリス1世である。やがて大英帝国の繁栄が終るとともに,この種の楽器の設置も行われなくなり,オルガンを教会外で聞くことは 再び稀になった。

 代わって大陸では,両大戦間にドイツで『オルガン改革運動』が起こる。デンマークやオランダでは一部のビルダがこれに刺激されて,戦後の10数年間に 礼拝のための多くの良質な楽器が製作された。しかし運動の展開は,地元ドイツでは大勢としては皮相なものに留まり,大規模製作所を中心に規格化された様式 (少々乱暴だが慣例に従いこれを『ネオバロック』と呼ぶ)のオルガンが数多く造り出される結果となった。現在ではこの様式規格化が世界的に拡大し, オルガン史上かつて無かった状況がもたらされた。


  2. コンサートオルガンの現状(ネオバロックオルガンの問題点)

 わが国のホール等に設置されたオルガンは,総じてネオバロック様式に従っている。そこでまず,この種の楽器の性質を考えてみよう。 これらが19世紀以前の楽器と著しく異なるのは,それが元々音楽,音響等,オルガンを取り巻く環境の中で本質的に音楽的で音の良いものが求められた結果ではなく, 専ら改革運動のドグマに従って造られたという点である。元々運動そのものが,建築・絵画・音楽一般の隆盛とは逆に 世紀末からドイツのオルガンが陥っていたデカダンスに対する反動として起こったもので,ノイエ・ムジークが音楽に於いてそうであったように(4:129),それ自身発展の可能性を持たないものだったと言えよう。歴史的な楽器に学ぶことを標榜しながら,実際には 18世紀以前の楽器の本質は理解されていなかった。また,過去のオルガンの音が持っていた多様性に対する認識が断片的で,その多様性を生み出した背景への考察も なされなかった。こうしたオルガン史の不十分な理解の中で,バッハと北ドイツバロックの楽器を勝手に結びつけることにより,概念化された Werkprinzip がネオバロックの様式として標準化されしまった。標準化は,『実務的な教会音楽家として有能なオルガニスト』を養成する教育の普及にとっては,好都合なことであった。

 現在のコンサートオルガンの最大の問題点は,ホールの音響に適合した音楽的性格を持ち合わせていないことだ。大規模なホールになると 教会とは音響が著しく異なるにも拘らず,教会の楽器と同様の設計をそのまま適用して製作している。建築音響設計者は,オーケストラの楽器は良く響くが オルガンの音はストレート過ぎると言っているし,多くの演奏家は,コンサートの楽器に Brustwerk など不要だと指摘している。 Werkprinzip の楽器が持つ Brustwerk は,歴史的には(恐らくは 典礼上の要求と結び付いて生まれ)特定の時代・地域だけに見られるものだ。 また,Werkprinzip に基づく部分オルガンの incasing も, この地方の教会の音響的特徴及びオルガンの使われ方と密接に関係しており,Rükpositiv Pedal では ケースの機能はパイプの音に豊かな共鳴を与えるのではなく,むしろ音を鋭角化するために利用されていた点に注意せねばならない。

 Werkprinzip はまた,音に本質的な音楽的変化を与える要素を無視したまま, Disposition の様式的規格化と単純化を促し,これは整音法にまで敷衍された。専ら倍音レジスタを広範囲に用いた Disposition が普遍化され,主としてルネサンス期や19世紀後半に製作者たちが考案し生み出した種々の個性的なレジスタ(パイプ)は 整理された上, 整音に於いても特定の方法(open-toe,低風圧,no nicking等)だけが採用された。バッハの主要作品群と Werkprinzip オルガンとの誤った関連付けはこれらを正当化するのに十分なものであった。 ネオバロックオルガンはモダニズムの風潮に合致したものだったが,結果として極めて音色の変化に乏しく表現力の限られた楽器になるという 致命的な代償を払ってしまった。大勢の実務的オルガニストにとっては,必要最小限のレジストレーションを破綻なく行えることが好都合だったので, これらの楽器は広範囲に受け容れられた。さらにここ10年間の動向として,オルガニストの要求がロマン派の音楽へも拡大した。 これを満たすために,当時の楽器で使用された類のレジスタがネオバロックオルガンに移植されたが,ロマン派の音楽が本質的にオルガンに要求している音は十分理解されず, また楽器全体の構造がどのように音を支配していたかは殆ど追求されていない。結局ネオバロックオルガンは,1950年代に一部のビルダが得た成果からは遠ざかり, 楽器としてますます水準の低いものになりつつある。

 ネオバロック様式展開の諸段階では,音質を左右する要素が多方面から総合的に検討されることはなく,抽象化された Disposition のみが便宜的・拡大的に解釈されている。その結果,多くのオルガニストやビルダが楽器の音楽的『仕様』を考える際, Disposition をレパートリと結びつけ過剰に重要視するようになった。オルガン史書の普及もまた, Disposition の変化のみがオルガン音楽の時代的・地理的な多様性と関連しているような錯覚を定着させてしまった。だが実際には,『仕様』が同じでも 全く音の異なる楽器は作れるのであり,Disposition のみにこだわってもあまり意味がない。そもそも,与えられたストップ数とレパートリに対して Dispositionを決定するという作業は,憶測によって妥協策をあれこれと検討するといった傾向のものだ。そうして得られる妥協は楽器の本質的な音楽的スタイルを離れてなされた 表面的なものある。勿論19世紀以前に於いても Disposition はオルガン発注に際し仕様の最も重要な部分を占めていた。 しかしその場合,時代,地域,製作者により決まる楽器の音楽的性格が常に前提となっていたのである。 今日,汎用性を持つコンサートオルガンの計画に当たって,Disposition のみをレパートリの面から検討してみても 何ら音楽的に優れた楽器を得ることには結び付かない,ということを我々は十分に心得ておかねばならない。

 Werkprinzip は,北ドイツバロックの楽器(それ自身かなり多様で自由度の大きい発達を示していた)を生みだした環境の中ではすばらしいものだった。だが コンサートホールのための楽器には,また別の角度から見た Werk Prinzipが必要であろう。4段以上の手鍵盤を持つ今日の大型コンサートオルガンに於いて, ストップ数の多さにも拘らず楽器としての表現力が一向に大きくなっていない事実が,問題点を浮き彫りにしているようだ。

 規格化と共にネオバロックの楽器を特徴づけているのは,音の良いものを求めるよりも欠点の無いものを求めるという態度であった。 その結果音の『完璧さ』に力が注がれ, Schwimmer がこぞって導入された。 確かに風は一見安定化されたようであったが,音が痩せて硬直し,躍動感を欠くものとなった。アクースティック楽器の特質を自ら放棄して, 電子楽器に近づいたとも言えよう。だが Schwimmerの最大の欠点は, Schwimmwer 自身の共振周波数が高くかつパイプからの音のフィードバックを受け易く,それによる変調が風の『質』を 悪化させている(つまり,実際には風は微視的には何ら安定していない)こと,そしてSchwimmerのサーヴォ系が 不安定領域に近い所で作動しているため音に伸びやかさが得られないことであろう。 ここでもまた,送風系が音質そのものに及ぼす影響は,無視されていたのである。

 ネオバロックオルガンは,バッハが知っていた数多くのオルガンと比較するとかなり音が悪く音楽性の低いものになっていることは確実だ。 これを適用したコンサートオルガンの音は,一般の音楽愛好家がオルガンに期待している音ともかけ離れたものだと言えよう。 オルガニストもオルガンビルダも,見学によって見聞を深めることが重要だ。日本では残念ながら比較すべき歴史的オルガンが無いが, 19世紀末までの 500年間に製作され世界各地に残存し,或いは厳密に復元された銘器を先入観無しに聞いてみるならば, 現代コンサートオルガンの非音楽的性格もまた明確に把握できるであろう。もし今後とも コンサートオルガンが,これら既設のネオバロックオルガンを基準にして次々と導入されるならば, オルガンの本来の音の素晴らしさが一度も認識されないうちに,大衆はやがてオルガンに対する関心を失ってしまうだろう。


  3. オルガンビルダとその周辺

 今日のオルガン製作は全体として見るならば甚だ不幸な状況にある。まず,即興や作曲から作品解釈へと,オルガニストの機能役割が次第に変化した という事情を挙げることができる。オルガン程,奏者の想像力次第で音が大きく変わる楽器は他に無かったのだが,この楽器が潜在的に持つ可能性 を引き出すべく演奏する者は少なくなった。オルガンはもともと即興と密接した楽器だったため,また楽器自身が極度に標準化されることのあり得ない性格のものだったので, 記譜法が発達しても譜面と音楽との関係は自由度の大きいものであった筈だ。オルガンという楽器の本質を熟知していたバッハは,レジストレーションの細かい指示は 殆ど残していない。

 また,作曲と演奏とが分かれてから,専業作曲家にとってオルガンは対象外となり,オルガニスト自身の存在も他の音楽家からは独立したものとなって, オルガンが音楽界全般から遊離してしまったという事情を挙げることもできよう。その時新しく現れたネオバロックオルガンの無機的な性格は, オルガン演奏家と音楽そのものとの距離をも広げてしまった。ネオバロック様式の普及と平行して,バロック及びそれ以前のオルガン音楽が発掘され, 次々と現代譜が出版されて,盛んに演奏が行われるようになった。当時の音楽や演奏法の研究も進んだが,現実の演奏に於いては,この オルガニスト固有の環境が強く作用していたためか,過去数十年間多くの有名無名の奏者により,オルガン音楽の遺産の最も充実した部分に対し, (民族や時代を越えて存在する)音楽の自然法則(41)を無視した演奏が広範囲に行われた。オルガン音楽はつまらないという印象を大衆に与え, オルガンは『音楽を聞く聴衆』を失った。こうした変化は多くのオルガンビルダにも影響を与え,『楽器としてのオルガンを製作する』という態度を 彼等は忘れてしまった。

 アクースティック楽器は元々大量生産はできないにも拘らず,ネオバロックオルガンの規格化は分業化が進んだ大規模オルガンビルダにとって好都合であった。また 施主の民主化や一様化したオルガニストの要求は,(独創的アイデアを持つ製作者よりは)これら大規模製作所への標準化された楽器の発注を促した。 より多くのオルガニストの要求を満たすため楽器を foolproofに造ることに力が注がれ,本質的な音の良さの追求は二義的なものとなっている。 過去の優れたビルダが持っていた技術,即ち,与えられた条件を経験と直感によって処理することにより,音楽的に優れた一つの楽器にまとめ上げるという 創造的インテグレーションの能力は重視されなくなった。ヨーロッパでは,大型のオルガンは大規模のビルダに発注され大教会堂の中に設置されるのが通例だ。 そのような空間では,豊かな残響が化粧してくれるので,元々音の悪いオルガンでもそれが余り問題にされない。こうしたビルダがホールのために楽器を製作することになった時, 音が良くしかも建物の音響に適する楽器を造るには,もはや技術的水準が低下していてすぐには対応できなくなっている。規格化が進んだ大規模ビルダで, 建築音響とオルガンとの関係を確実に把握し楽器製作に生かしている者は皆無であろう。筆者はこれまでに,そのような製作所の指導者の幾人かと話を交えたことがあるが, この点について彼等の明快な見解を得ることができなかった。

 昔は,オルガンビルダは特定の地方でのみ仕事をし,その土地の建物やオルガニストの要求に合った楽器を造ればよかったので,一度良い結果が得られれば, 同じ手法を繰り返して適用することにより常に高水準のオルガンを製作することができた。またそのノウハウを次の世代に伝承し,より良い成果を上げることもできただろう。 ところが,オルガンが設置される環境が著しく多様化している今日では,オルガン製作者は音楽や音響学一般(それ自身,音楽に関する分野では未だ十分発達しては いないが)を始め,非常に広範囲の知識や経験を要求されているにも拘らず,現在のヨーロッパの多くの国では,オルガンビルダになるための社会的背景が これに応えるようにできていない。これはオルガンビルダの教育の問題でもあるが,産業革命以後の分業化が,オルガン製作に対して悪影響を及ぼしたことにも起因している。 西ドイツを始め他のヨーロッパ諸国でも,次第にオルガン製作者の教育養成を組織化しようとする試みがなされている。しかし,楽器として明確なコンセプトを持つオルガンを造る ということは,それが多岐にわたる様相を持つものだけに技術としては体系化が困難だ。オルガン建造の『楽譜』は渡してくれるが,『いかに生きた音楽を演奏するか』は 教えてくれない。設置される空間をも含めてオルガンを楽器と考える時,単に優秀なクラフツマンであるだけでは,もはや不十分である。オルガンとして立派な形 を持ちながら楽器として優れたものが現在では滅法少なくなってしまった。

 先に述べたようにオルガンビルダとオルガニストの隔たりも大きくなっている。カヴァイエ=コルは,ルフェビュール=ヴェリの半ば『興行師』的役割を果していたし, パリでは名の知れていなかったセザール・フランクが聖クロチルド教会の首席奏者になり得た裏には,カヴァイエ=コルの口添えがあったことにもほぼ疑いの余地がないという (5:108)。一方英国の偉大なオルガン製作者ウィリスは自ら,10代の時から70歳を過ぎるまでの間に順次3ヶ所の教会で,50年以上にもわたって オルガニストを務めた。240km 以上も離れた都市で大きな楽器の設置に従事している時でさえ,毎週土曜の晩には帰って翌朝の礼拝に備える程の勤勉さだった。 次々と製作されるオルガンが,彼自身の手で奉献や披露演奏されることもしばしばあった(6:12-13,16,40)

 オルガンビルダとオルガニストとの接触は大切なことだが,コンサートオルガンの場合特定の演奏家のために楽器を造るわけではないので,製作者自身が音楽に対する明確なヴィジョン を持っていなければならない。オルガンが世界的に教会外での活躍を求められている今日,これを真剣に考えることは現代のオルガンビルダにとって極めて興味深いテーマである筈だ。


  4. コンサートオルガンに求められる特性

 楽器は演奏家と聴衆との橋渡しをする重要な存在である。コンサートオルガンは,わが国では今後のオルガン文化充実の中心的存在となり得るものなのだから, 楽器として『演奏者に大きな表現力を与えることができ,かつ誰が聞いても音の良さが分かるもの』でなければならない。音の良いということは, 音楽的な音を意味する。演奏家を鼓舞し音楽を触発するような楽器による演奏こそ,聴衆に訴える力を持つものである。楽器の総合的構造よりも Dispositionを,またパイプの製法や整音よりも Mensurを重視するといった,ネオバロック様式に於ける風潮を見直し, コンサートホールに適した音と音楽性を持つオルガンをもっと掘り下げた観点から検討してみよう。そのような楽器は,オルガン製作史上未だに十分追求されたとは 言えない。しかし,英国に於けるタウンホールの楽器等が示唆するものを,何らかの手掛かりとすることができよう。

 現代のアクースティック楽器は,優れた演奏家の手にかかった時,音質を犠牲にすることなく大きな音量を出すことができる。オルガンでは,奏者が これを自由にコントロールできないのだから,楽器自身がそのように造られていなければならない。何よりも良く鳴る(sonorous) ということが基本的条件であり,大音量時には力強いが豊饒で,かつ澄んだ音が望ましい。 その上,繊細な弱音も兼ね備えていなければならない。オルガンは 本質的に持続音であるため残響の乏しいホールの中では単調さと疲労を伴い易いので,躍動感と柔らかさもまた重要な条件である。

 これらを実現するためには,まず,風箱上のパイプ群の性格に応じた容量と機能を持つベロウ(Balg),風箱の適切な構造と寸法形状, 良質の風を受けて 各レジスタ固有の音色や発音を効率良く引き出す整音方法,等を検討してみなければならない。

 豊饒な音には,まず風圧に応じた十分な大きさの(高風圧ほど相対的に容量は小さくてよい)ベロウが必要条件となる。大半のネオバロックオルガンの欠点は, Schwimmer の装備によりベロウが省かれているということである。これでは物理的に強い音は出ても硬質さがつきまとうため 疲労を招きやすく,豊饒さを感じさせる音は絶対に得られない。本質的に管楽器であるオルガンの音に躍動感を与えるためにも,ベロウの程よい運動を音に反映させた方が 良いだろう。 また,管楽器や人声で強奏時に多少ピッチが上擦るのは当然の現象なのだから, オルガンに於いても,中高音域でそれが自然に行われることは(メル尺度とピッチの音圧依存性 (7))理に適っていると言えよう。これらの条件を満たすため,19世紀以降に用いられるようになった風圧変動を中和する構造のベロウや,より古いタイプであるくさび型ベロウなどを使い分けることが望ましいと思われる。しかしそのための理想的な設計は,風箱や送風系,ひいては楽器全体の複雑化を招きコストの大幅な増加にも繋がる。デッドな空間で躍動感のある音を作り出す今一つの工夫として,セレステ類のレジスタや良質のトレモロを活用することも,大いに有効である。

 響きのある音はどうすれば得られるだろうか。コンサートホールでは残響が少ないので,これをオルガンの音そのものを工夫することにより償わねばならない。 そのためには,オルガンケースの機能・風箱の設計・整音方法等が音に及ぼす影響を,音楽と建築音響双方との関係に於いて今一度検討し直す必要がある。 ポリフォニ音楽とホモフォニ音楽との何れを重視するかは,風箱上のパイプの配列法とケースの形態との相互関係と関わりあっており,この問題を 我々は避けて通ることができない。しかし,レゾナントな音を生みだすためには,ケースが持つ種々の音響的機能のうち共鳴器としての働きを利用する必要がある。 オルガン製作者は,パイプ群の発音・オルガンケース内空間の共鳴(ケース自身の共鳴を含む)・ホール内空間の共鳴,以上3者の相互作用を 正しく理解していなければならない。それが如何に音に影響しているかを把握した時,我々はホールの中に設置されるオルガンの響きをかなり改善できる。 一例を挙げるならば,大音量で sonorous に鳴らしたいパイプ群に対してはホールの空間そのものをオルガンケースとして利用する,といった発想も必要となろう。

 音源としてのオルガンの大きさと形状は上述したポリフォニかホモフォニかという問題と関わっているが,これはまたホール自身が持つシューボックスか アリーナ型かといった(8)(9)音楽的性格に合致したものでなければならない。ケース内空間の共鳴を積極的に利用するため,ホールのオルガンは 同数のストップを有する教会の楽器と比較してより大振りのものになるだろう。

 音量感を強調するためには,ダイナミックレンジを意識的に拡張する必要がある。それには弱音の持つ美しさや繊細さも大切で,その重要性は大型の楽器になる程 増大する。送風機が発する持続した雑音は弱音時の音楽を想像以上に汚しているので,徹底した遮音を図り楽器自身のSN比を向上させねばならない。大型のホールでは 古典楽器の演奏はあまり適さないことからも分かるように,オルガンもまたホールの規模に応じた整音(10)を施さなければならない。 大型のコンサートオルガンには,進化した現代のオーケストラの楽器が持つのと同様の性格が要求される。その上,オルガンらしい音ということも大切だ。 ネオバロック様式の整音をコンサートホールに適用した楽器はこの点甚だ不満足で,多くの聴衆にオルガンという楽器が持つ可能性について誤解を与えている。 これは,NHKホールの完成当初にかなり一般から指摘されたことである。オルガンの最も基本的な音色を持つ主要鍵盤のレジスタ,即ち基本ピッチの Principalは,言わばそのオルガンの顔である。これをソロで奏した時にも,満席のホールでよく響くものでなければいけない。これにどのような音を与えるかで 楽器全体の性格がおおよそ決定される,と言っても過言ではあるまい。また,ペダルの 16'より低いピッチのレジスタも,大衆が期待する オルガンならではの低音を担っているのだから疎かにはできない。ここで筆者が強調したいのは,ラビアル,リードともに,基音の動きが明瞭に分かるよう 比較的低次の倍音が充実していなければならないということである。それにより,オルガンの音のピラミッドの最低層をはっきり聞くことができる。聴感上 ペダルが強過ぎるとマニュアルの音の動きを隠蔽してしまうという点にも注意する必要がある。リードには勿論ホールの規模に応じた風圧を与えねばならないが,逆に ラビアルの場合,最低音域では風圧よりも風量に留意せねばならない。現代のビルダの多くはこの点をよく認識していない。

 コンサートホールの楽器では,残響の不足を補い単調さを救う今一つの方策として音色の多彩さを求めなければならない。 これについては,ルネサンスのオルガンや,優れたロマン派の楽器にその範を求めることができる。大型のコンサートオルガンでは, Mixtureや Mutationを必要なだけ装備した後,アンブシュールの異なる種々の形状の ラビアルパイプ,或いはまた種々の For-mantを持つリード管等を,基本ピッチで(8'を中心として)充実させる必要がある。 これは,ポリフォニ音楽の全盛時代にも程よく行われていたことである(11)。またリード,特にトランペット系のものに対して より表現力の大きい音色を得るためには,風圧は広範囲に検討せねばならない。フランス風の低圧トランペットを万能的に用いているネオバロックオルガンは, その高次倍音に傾いた痩せた音のためにやはり不適当なのである。目指すものはオルガンのオーケストラ化ではないが,『オルガンの金管』が 本物の金管楽器と比較して著しく低い風圧で吹奏されているというのも合点がゆかない。我々は,広いオルガン製作史上の輝かしい遺産を,もっと多く 今日に生かさなければならない。8'ストップの充実がデカダンスであるという通常の誤解は,音楽性の低い一部のロマン派オルガン(世紀末の多くの楽器は, オルガンパイプの自然な整音法を無視して,単にパイプボディの形状変化による音色の多様化を追求していた)を基準とした判断によるもので,短絡的な考え方である。 ネオバロックの楽器では,平板な整音のため対位法の音楽に対する適性が悪いものが意外に多い。むしろ19世紀後半の優れた楽器の中には これらをより音楽的に演奏し得るものもある(6:51)。 それは,Principalを始め 基本的なレジスタに属するパイプ自身が,ネオバロックのものより健全で充実した倍音構造を持つように整音されているからである。オルガンは本質的に ハーモニを持ったポリフォニ音楽のための楽器だということを,いつの時代にも優れたオルガン製作者は忘れたことがなかった。

 以上の手法を駆使して製作されるコンサートオルガンは,もともと管楽器であるオルガン本来の音を取り戻すことができ,オーケストラとの合奏や協奏に於いても 他のアクースティック楽器と音色的かつ音量的にバランスのとれた楽器となるであろう。コンサートホールはオルガンにとって新しい環境であり, そこで要求されているものは,『ホールの音響と性格に合致し,聴衆を満足させることのできる音』を持つ楽器であり,『楽器の原理』に基づいた 普遍的音楽性の高いオルガンである。 ストップ数で表される規模,Disposition,各鍵盤やレジスタの性格,等は 総てこれらの条件を満たすようオルガン全体の設計の中で,過去のレパートリを参考にしつつ決定されねばならない。そしてまたそのような設計のコンセプトは, 演奏者にとって明快で理解しやすいものであるべきだ。レジストレーションが音色と音量の両面で適切かどうかを,演奏台の位置から聞き取りやすいように 楽器を構成するといった配慮も必要だ。こうした楽器はオルガンに馴染みのない者にとっても音色の美しさが容易に理解できるものであると同時に, 高度の音楽性と技術を持ったオルガニストをも満足させるものとなるだろう。

 テンペラメントは,コンサートオルガンの場合 Dispositionよりもレパートリとの関係が深いとさえ言える本質的な問題である。バッハを オルガン音楽の中心に据えることについて異論を唱える者は殆どいないだろう。彼のオルガン音楽に適した楽器,調律法,或いはレジストレーション等を考える時, 我々が忘れてはならないのは,史実による客観的事実と,史実と作品の分析によりバッハ自身の性格や彼の音楽の性質をよく知るということである。当時は 作品を移調して弾くことはオルガンでは頻繁に行われたし,バッハのライプツィヒ時代には,オルガンには,ミーントーンに近いものから 平均律か若しくはそれにごく近似したものまで,種々の調律法によるものが存在していた。オルガン製作者も,様々な調律法を使い分ける者が多かった。 バッハのオルガン及び鍵盤楽器作品を見ると,初期のものではウェルテンペラメントで各調性が持つ性格を音楽の上で利用していたと思われるが,やがて 各調性の持つ固有性を乗り越える(無視する)のを彼の音楽が要求するようになったことが示されている。それはバッハ自身の性格から判断しても自然なことである。 バッハは,対位法という時代遅れになりつつあったものを極限まで追求しながら,和声面でのより大きい可能性と自由性とを常に求めていた。それは 垂直(static)な和声の強調ではなく水平方向(dynamic)の和声機能の重視ではなかったか。 そしてまた,バッハの総ての(オルガン)作品が,(当時一般に存在していたオルガンで)演奏されることを前提としたものとも限らないのである。(12:183-191)

 筆者は,ここでコンサートオルガンのために最も適したテンペラメントを決めようとは思わない。選択は妥協的なものでしかあり得ない。古い音楽と 新しい音楽との優劣はつけられないし,音楽がいかに優れているかということとテンペラメントの問題とは別のものである。また,ハーモニを staticに捉え音のテクスチャそのもの(の変化)を強調した音楽を望む演奏家もいるし, dynamic な和声の機能面を重視した演奏をする者もいるだろう。 だが バッハの主要作品をコンサートオルガンの最も重要な対象として捉える限り,答えはほぼ一点に収束しよう。それはまた,デッドなコンサートホールの音響では 人間の耳は staticな和声に対しては比較的鈍い という事実にも合致したものである。

 アクションについても,広範囲なレパートリや現代の多様化した奏法を考えると絶対的にとは言えないのだが,現時点では 大半のオルガン奏者を満足させることのできる良質のトラッカアクションが無難であろう。それも,鍵盤に触れる奏者の指の動き次第で 笛の息づかいを自由に操れるさまがはっきりと分かるほどのものでなければ意味がない。鍵盤と弁とは,剛性が高く慣性の小さい シンプルなメカニズムで結ばれていなければならない。しかし大型オルガンでは風圧も風量も大きくなるので,他のアクションを併用したり トラッカアクションを放棄することも止むを得ない。それはまた,そのような楽器での奏法やレパートリにも影響を与えるが,大型コンサートオルガンの場合 それにより楽器や音楽の質が低下すると考えるのも早計であろう。質が変るのである。

 レジストレーション補助装置等は,コンサートオルガンではオルガン独特の表現力を拡大するために充実させる必要があろう。それは 音楽や演奏の要求に応じてなされるべきで,人間が機械の奴隷になってはならない。大型オルガンのコンソール設計様式は,今世紀になってから 英米両国で完成の域に達する程に発達したにも拘らず,大陸ではオルガン改革運動の陰で無視され続けている。(パリのノートル・ダムの演奏台は, コシュローの就任後間もなく実施された楽器の修理改造に際して,彼がわざわざ特註した『英米式』のものに置き代えられたが,これは殆ど例外に属する。) 昨今,一部のオルガンビルダや演奏家にもてはやされている,コンビネーションのSequencing 機能( "List" function,『ステップ装置』等と通称)は,過去の演奏台設計の歴史的発達とは無関係である。 それは,オルガン演奏が伝統的に持ち合わせていた即興性を否定し,音楽の自由度を限定する性格のものだ。 アクースティック楽器による音楽は再現性がないところに特徴がある。録音記録を第一の目的としないコンサートホールでは,演奏行為の一過性と それに伴う緊張感とが音楽をより高度なものとし得るのではないだろうか。表現力の多様性とは無縁な foolproof機構が 独奏楽器に必要不可欠なものとは思われない。もともとステップ装置は演奏家の要求から生まれたものではない。そもそも演奏行為を自動化するという発想は 不自然で,アクースティック音楽の聴衆が望むところのものではない。このような安易な装置の使用が過度に普及すると,クラシック音楽の伝統に於ける オルガン奏者自身の存在を危うくするであろう。オルガンは楽器であると同時に機械としての可能性も持ち合わせている。もはや 独奏者としてのオルガニストを必要としないまでに,今日のコンピュータ技術等の音楽への応用は急激に発達しつつあり,また新しいタイプの音楽家の領域も 拡大してきているのである。それは歓迎すべきものだと筆者は考えているが,ここでは対象外なので深入りしない。


  5. コンサートオルガンと演奏される音楽について

 優れた音楽性を持つコンサートオルガンの出現により我々は,失っていた『オルガン音楽を聞く聴衆』を取り戻さねばならない。オルガン音楽の 新しい可能性が追及される一方,専ら大聖堂の音響効果だけに頼っていた曲は淘汰されるかもしれない。オルガンはつまらないという印象を払拭し, 音楽愛好家の間に楽器の女王としての地位を再び確立せねばならない。

 (作曲としての)西洋音楽は1000年以上にわたる偉大な発展をまさに終えた所だが,今後数十年間は演奏技術と演奏解釈様式の多様化に於いて 充実し続けるだろう(13)(14)。これはオルガンの場合にもあてはまるのだろうか。オルガン音楽は,ルネサンスからバッハに至るまでの 200余年が黄金時代だった。これらの作品に対しては最近漸く優れた演奏解釈が与えられるようになってきた。そこでここでは一人の音楽聴衆としての立場で, バッハ以後の音楽がどのようにオルガン独奏のレパートリ充実に繋がるか,思い当るままに私見を述べてみたい。それは,コンサートホールに於いては バロック以後の作品の充実がオルガン普及の鍵になるからでもある。

 最初に取り上げたいのはモーツァルトである。自動オルガンのための2曲の幻想曲(いずれもヘ短調:KV 594, 608)や ヘ長調のアンダンテ(KV 616)は, 彼の器楽曲の中でも無視することができない(15)。編曲によらねばならないが,やはりオルガンで演奏するのが最もふさわしい。 晩年の不遇の中で作曲されたこれらの作品は極めて純粋なスタイルを持ち,オルガン音楽の最も重要なレパートリに加えられるべきだろう。

 19世紀後半以降のフランスの作品は,近頃わが国でも頻繁に演奏されるようになった。しかしそれはかなり限定された作曲家のものであり,総てが コンサートオルガンでの演奏に適しているとも思えない。より広範囲に見渡して,コンサートホールでのオルガン音楽がさらに豊かになるか探ってみよう。

 フランスのオルガン音楽は,大聖堂の響きを要求しているものが多いように思われる。フランクの大オルガンのための作品は高潔で宗教的恍惚に満ち満ちているが, 音響に頼り極度に感覚的だ(16)。遺憾ながら筆者はこれらの曲の(音響的条件の整わない場所での)実演に於いて感動を覚えた経験がない。 聖クロチルド教会の空気,カヴァイエ=コルの楽器の音色,その他諸々の儀式を必要としているのであろう。バッハ以後の著名な音楽家として 最初にオルガンのために献身的に作曲したという点で,また追随者が多かったという点で彼の存在は重要である。だがフランクは,バッハ程 オルガン本来の機能を理解したオルガニストではなかった。彼に続く楽派の作品の中で,ヴィドールのオルガン交響曲のように平易明快なものは, シンフォニックな性格の強い大型の楽器を有するホールでは演奏効果が大きいので,幅広い聴衆にアピールするかもしれない。

 リストをして世界最高のオルガニストと呼ばしめたのはサン=サーンスであった。彼は幾つかのオルガン曲を残したが殆ど日の目を見ていない。 『交響曲第3番』だけでは彼のオルガンに対する関わり方は分からない。青年期の牧歌風な作品は魅力的で,ともすれば重くなりがちなオルガン音楽全体の中で 貴重な存在である。メシアンの作品は19世紀以降の最も重要なフランスのオルガン音楽だが,カトリック教会の神秘的雰囲気が コンサートホールの中では失われがちだ。

 その点,自身の作品に対して寛大であったレーガーの場合は,同時代のフランスのもの程楽器や演奏の場を選ばない。彼のオルガン音楽の本質は, ポリフォニとホモフォニとの両面を持ち合わせていることと構造的ダイナミクスの強調であり,優れたコンサートオルガンでの演奏に適したものと言えよう。 レーガーは,バッハ以後の音楽家の中では最も精力的にオルガンのために作曲した。多くの作品は一見,大半のオルガニストや聴衆に冗長で難渋な印象を与える。 だがその中には,奏者の主観的音楽性如何で驚くべき興奮と感動を呼び起こすものがあり,それがオルガンという楽器に即しているという点で比類がない。

 19世紀以降のイギリスのオルガン音楽は,日本ではもとより大陸でも余り知られていない。本流をなすものではないが,この国だけに聞かれるリリカルな作品は 見逃すことができない。これについては,もう少し研究を進めて別の機会に報告することにしたい。

 戦後の『重量級』のオルガン音楽の特筆すべき例としては,現代チェコスロヴァキアの作曲家ペートル・エーベン(Petr EBEN,1929- )の "Sonntagsmusik"(1958)(31)や "Laudes"(1964)(32)等を挙げることができる(21)(22)。 これらの作品はオルガンの性格や楽器としての可能性に対する作曲者の深い理解を示しており,いわばドビュッシーやラヴェルが切り開いた 新しいピアニズムの局面に相当するものがオルガンで初めてもたらされたと言ってよいだろう(17)(18)(19)。それは本来ならば トゥルヌミールによってなされるべきものであったが,彼もまた教会の中に留まってしまった。リゲティの "Volumina" (1961-2; 改訂版1966) のようなより新しい語法による音楽が先にポピュラリティを得てしまったが,オルガン交響曲の形式による "Sonntagsmusik" は,近年ヨーロッパに於いて頻繁に演奏され現代オルガン曲の中で不動の地位を築きつつある。エーベンの音楽は グレゴリア聖歌のテーマを用いてはいるが人間的なものに根ざしており,コンサートホールでの演奏には非常に適している。彼の音楽は, オルガン音楽だけが(西洋音楽史に於いて)作曲の面でまだ十分楽器の潜在的可能性を追及し尽していないことを示すものではないだろうか。 エーベンが東欧の芸術家だという事実は象徴的である。

 多彩な音色を持つ大型オルガンのためにオーケストラや他の器楽作品の編曲(Transcription)を演奏することは, コンサートのためのレパートリを充実させる上で,聴衆の側からは大いに期待されていると言えよう。最近,ムソルグスキーの『展覧会の絵』を オルガンで演奏した録音が幾つかレコード化されている(23)(24)(25)。この曲は,周知の通りラヴェルのオーケストレーションによって, より大きなポピュラリティを獲得したものだ。 オルガンで演奏することにより,新しい可能性が見出だされたと言えよう。また,ジャン・ギユーが 1982年にニューヨーク(リヴァーサイド教会)で行った『ペトルーシュカ』の演奏(26)は,大オルガンの可能性を極限にまで追求したもので, 筆者のこれまでの音楽体験の中でも極めて印象深い。編曲は,演奏家が与えられた楽器の個性を十分に発揮できる即興演奏と同様,バッハ自身の音楽に於いても 重要な部分を占めていたという事実を忘れることはできない。


  6. コンサートホールはいかにあるべきか

 オルガン音楽は空間を利用した芸術である。オルガン演奏をどの程度まで純粋に音楽として聞くか,或いは単に音のオブジェとして聞くかには 聴き手の音楽的経験により大きな個人差がある。残響が長過ぎて明瞭度が悪い空間では,オルガンと言えども音楽としての聴くには不適当なものとなる。 コンサートホールは,音楽を聞くことをあくまでも目的とする場なのだから,オルガン音楽だけを教会の音響と追憶的に結びつけて,特別扱いする必要もないだろう。 オルガンビルダは残響理論の認識の不足のために,またオルガニストは自分が演奏している音楽を聴衆の位置で聞くことができないために,単純に 残響時間が長いほど良いと考えがちである。また両者共,数字で表される『残響時間』と『残響感』との差を殆ど理解していない。セイビンが定義した いわゆる残響時間(RT)は,もはやホールの音楽的な評価基準としては殆ど役立たない(20)ことを我々は認識すべきである。大規模なホール程 その部屋固有の響きがオルガンの音色に対し顕著に影響する。今後建設されるコンサートホールでは,ホール自身の音楽的性格が計画段階で明瞭に打ち出され, それに適ったオルガンが製作されねばならない。そのためには,建築設計の段階で既にオルガン・スペースの位置,大きさ,形状等が オルガン設計のコンセプトに合致したものとして把握されていなければならない。

 コンサートホールの多様化が進んだ暁には,オルガン音楽を中心としたホールも出現しよう。その時我々は,大聖堂の響きを伴った伝統的なオルガン音楽と, 過去には全く存在し得なかった革新的な楽器による未来のオルガン音楽とを,電子音響技術の駆使により一つのホールで自由に聞き分けることが可能となるかも しれない。


  7. オルガン設置計画と発注者

 わが国のホール等に設置されるオルガンは,大半が楽器一般を扱う商社を通じて発注され(これはオルガン建造史上,異例のことである), 海外のオルガンビルダにより製作される。これらの楽器商社が,これまでオルガンの普及に果した役割を過小評価することはできない。 だがそこでは,建築音響を考慮した楽器としてのオルガンの設計は全く行われておらず,外国のビルダ達は(第2・3章で述べた通り)コンサートオルガンの 然るべき姿について無関心である。結果として,公共・民間のホールを中心に近年かなりの大・中規模オルガンが設置されたにもかかわらず,聴衆は 未だに納得のゆくオルガンの音を聞くことができない。そして悲しむべきことには,その現状を十分に認識している者がオルガン関係者の間にも 甚だ少ないということだ。完成度の高いコンサートオルガンが実現されるかどうか,それは結局施主が決めることである。特に公共のホールの場合, 発注者が(委員会を設け,或いは多くの人から意見を聴取することにより)民主的に計画を進めようとする程(関係者の間に問題の認識が無いのだから) 理想に適った実現からは遠くなり易い,という所に難しさがある。無関心な海外のビルダを,A,B,C社と詮索するだけでは,いつになっても 良いオルガンは得られない。何らかの新しい体制作りが必要だが,残響時間が3秒無いから良く響かない等と言い訳をするようなオルガン製作者には, 少なくとも今後はコンサートホールの楽器を発注すべきではないだろう。筆者が第4章で論じた内容が(筆者の論点の適否は別にしても),照会の段階で 既にビルダと発注側との間で検討されるべきだ。ストップ数やストップ当たりの単価といった,極めて不本意な基準でのみ計画を進めていたのでは,永久に オルガンらしいオルガンをコンサートホールに実現することができないだろう。

 オルガンの発注に際して,『機種』などという場違いの言葉が用いられているようだ。それが何を意味するのか,筆者にはよく分からない(防衛庁が 次期戦闘機の購入を検討する時のことを想起させる)。楽器商社がオルガンを扱っている日本でのみそのような言葉がまかり通るのであろう。 公共的性格を持ったホールへのオルガン設置に携わる者,特に販売側の関係者は,今後はオルガンの本質を理解し,演奏家 そして最終的受益者である聴衆の要求に応えるよう努力すべきだ。大都市を中心に音の公害に悩まされている地域では 特に,これ以上我々の音楽的な耳を悪くする類のものは必要ない。オルガン音楽が無ければ生きてゆけない訳ではないし,非音楽的な楽器による 貧しい音楽を聞かなくても,私たちの周囲にはすばらしい音楽が満ち満ちている。

 さて,ハードウェアとしての楽器の導入と共に忘れてはならないのは,ソフトウェアつまり完成後の運用の問題である。設置計画の当初から,オルガンの所有者は 運用についてのヴィジョンを持っていなければならない。公共のホールなら地域の住民が中心となることもできるし,民間の場合は 効率の良いプロジェクトチームを作ることが考えられよう。いずれにせよ,運営の才覚を有する者に加え音楽を愛する者が計画にあたらねばならない。

 日本人はオリジナルな発想は苦手だが,問題点を与えられると最善の解決法を見出だすというのが,諸外国に於ける定評だ。筆者は問題点の提起と共に 技術的な解決の一方向を示した。その思想が行きわたるならば,実現は多分に政治的な次元のものであろう。


  あ と が き

 今後とも増加することを望みたいホールのオルガンに対し,我々は誰が聞いてももっと音が良いと思うような楽器を要求する権利があると思う。ネオバロックの楽器が陥った現状は,西洋音楽史の展開が終わり収束に向いつつあった一段階の,オルガンに於ける反映であった。理想的なコンサートオルガンの実現により,オルガンの中に音楽を豊かにする音を追求し,そしてオルガン演奏の中に我々を充実させてくれる音楽を求めなければならない。それはクラシック音楽全体をより一層充実したものにさせてくれる筈だ。もしわが国がこの分野で先進的な例を示すことができるならば,それは全地球的な音楽文化の向上に寄与することになるだろう。

 なるべく客観的に論を進めるように留意したつもりだが,筆者の独断による部分も多いかと思う。先達諸姉兄のご指摘を待つ次第である。


大 林 徳 吾 郎 (会員,オルガン設計建造家)



参 考 文 献

( 1) Williams,P., "A New History of the Organ". Faber & Faber, 1980.
( 2) Sumner,W.L., "The Organ" (4th.ed.). Macdonald & Co, 1973.
( 3) (Williams,P., in the Introduction to:) Cavaillé-Coll,A., "Devis d'un Grand Orgue à Trois Claviers et un Pédalier Complets...". Knuf, 1980.
( 4) 柴田南雄, 「音楽史と音楽論」 (放送大学教材). 日本放送出版協会, 1985.
( 5) Douglass,F., "Cavaillé-Coll and the Musicians (2 vols.)". Sunbury, 1980.
( 6) Sumner,W.L., "Father Henry Willis". Musical Opinion, 1956?.
( 7) 厨川・遠藤・茂木, 「音質のすべて」 (無線と実験別冊). 誠文堂新光社, 1980.
( 8) 斎藤義, 「新設コンサートホールに期待できるか (1〜3)」. 芸術新潮 1984年4,5,6月号.
( 9) 斎藤義, 「ワインか靴か」. 建築雑誌 1986年 1月号.
(10) McNeil,M., "A Theory of Voicing and Scaling Flue Pipes". ISO-Information Nr.23 (Aug.1983).
(11) Kjersgaard,M., "Om Disponering af Småorgler (I & II)". Orglet 1/1973; 2/1973.
(12) Williams,P., "The Organ Music of J.S.Bach, Vol.3: A Background". Cambridge University Press,1984.
(13) 柴田南雄, 「マーラー・ブームの意味するもの(われわれは"世界音楽"への過渡期に生きている)」. 朝日ジャーナル 1986年5月23日号.
(14) ステント, 「進歩の終焉」 (Stent,G.S.,"The Coming of the Golden Age".1969) (渡辺・生松・柳沢共訳). みすず書房, 1972.
(15) アインシュタイン, 「モーツァルト」 (1945) (浅井真男訳). 白水社, 1961.
(16) ションバーグ, 「大作曲家の生涯 (中)」 (1970) (亀井・玉木訳). 共同通信社, 1978.
(17) Landale,S., "La musique d'orgue de P. Eben". L'Orgue N° 169 (Janv.-mars 1979).
(18) Eben,P., "Petr EBEN aux Amis de l'Orgue". L'Orgue N° 172 (Oct.- déc. 1979).
(19) Landale,S., レコード[22] の解説書.
(20) (Jordan, "Rumakustik" i:) "Akustiske Perspektiver", Polyteknisk Forlag, 1982.

レ コ ー ド ・ 録 音 物
(21) EBEN,Petr: Sonntagsmusik (Milan ŠLECHTA). Supraphon DM 5715.
(22) EBEN,Petr: Pièces pour Orgue (Susan LANDALE). Lyrinx LYR 031/33.
(23) MUSSORGSKY: Bilder einer Ausstellung (Oskar Gottlieb Blarr). Schwann 2050.
(24) MUSSORGSKY: Pictures at an Exibition (Arthur Wills). Hyperion A66006.
(25) ムソルグスキー: 組曲「展覧会の絵」,他 (アスラン). デンオン 33CO-1028(CD).
(26) STRAWINSKY: 3 Dances of Pétrouchka (J.Guillou). 放送用録音.
( [23][24][25] はいずれも奏者自身の編曲による。)

楽 譜
(31) EBEN,Petr., "Sonntagsmusik". Artia AP 185.
(32) EBEN,Petr., "Laudes". Artia AP 3112 (or United Music). そ の 他
(41) 武久源造,「私の演奏解釈」.日本オルガン研究会主催第4回オルガン会議でのゼミナール, 1986年4月4日.



Organs for Concert Hall
Tokugoro Ohbayashi (Organ architect and builder)

Not more than one per cent of the population in Japan is Christian. Organ music and organs are expected to find their way to become popular musical media in concert halls.

Most organs that are currently built for concert or multi-purposed hall are constructed according to the "dogmas" that are formulated during the course of "Orgelbewegung". They are such as Werkprinzip, quasi-barock voicing, low wind pressure, French reeds, etc. These organs are far from satisfactory as concert instruments.

The historical development of the organ-building shows that,until the Orgelbewegungtook place, they always built instruments according to the tradition, builder's owninspiration, musical taste of the organists, architectural and acoustical conditions, and so on, but never after any "dogma".

An organ builder who is going to build a large concert instrument must realize that "organs for concert-halls" have never been well explored in the history of organ-building. Instead of saying that his instrument will not sound good because the reverberation timeis not longer than 3 seconds, he should try to find the way to to design an organ after the acoustical and architectural conditions in and musical requirements of concert halls. The unsuitable North German Werkprinzip will be replaced by the new principle of Werkfor modern concert organs, which is proposed for instruments to be built in larger hallswith more than 1000 seats. An employment of high pressure reeds, for example, can be well considered.

What most audience expect from an organ concert is merely a religious atmosphere orvarious registrations to be heard that the particular instrument can enable, and not very often a great musical experience. One of the reasons for it is that to give a concert is not the primary function of the church, and most organists are not use to play musicas a performing art.

Such audience often feels that long reverberation for organ music is indispensable. This is not true. A concert hall is a place for playing and listening to music. You cannot hear and enjoy the player's fine articulation in a fast passage if the reverberation is excessive.

It is quite natural that the organ music to be played in concert halls can be much different from that you used to hear in churches.